2005年11月12日

山之内 淳の江西省古鎮めぐり (4)

 今晩は明日、安徽省の黄山へ抜けるバスに乗るために、婺源で宿泊しています。婺源はこのあたりの村をめぐるツアーの基地となるところで、ホテルもたくさんあり、週末も重なってツアー客や観光バスばかり。昨夜宿泊した清華とは規模も違います。婺源は江沢民の祖先が住んでいるところで中国人にも有名。


 今日のルートはかなりの悪路が予想されており、昨日の2トントラックをお願いしておきました。なんせ、舗装道路がほとんどないような泥濘を走ります。昨日まで雨だったのでなおさら。


 今日は観光バスの定番コースである東側のルートをたどり、最終的に山の上にある高山平湖までいきます。観光バスの定番コースとは、すでに観光地としての整備が行われているところで、イメージ的には江南の周庄のようになっていて、トイレも安心という感じでしょうか。すでに整備がされているのは、この東側のルートに多く、思渓・延村・李坑などがそれにあたります。


 ほとんど興味がなかったのですが、バスツアーのコースにもよく採用されている李坑を一応見学。う〜ん、入場料は30元取られるし、バスツアーの観光客ばっかり。やっぱり道路が整備されて、行きやすくなると、もう昨日の理坑のような趣はすっかりなくなっていました。悲しいです。黄山からの高速道路が近年中に開通すると、もっと観光客が増えることでしょう。上海から高速でダイレクトにいけますから。でも、気軽に行けるという点では大切かもしれません。どの家でもおみやげ物や骨董品に販売に精を出していました。


 登山の格好をして街を歩いている私は、どうもこういう観光地では浮いています。

 

李坑の古鎮


 というわけで、観光地の見学はこれだけにして、一路山奥を目指します。そう、このトラックが本領を発揮するときです。とにかく道がひどい。昨日の雨の影響で、上から下ってくるマイクロバスがスリップしておりてきます。上りの私たちも、止まってしまったら大変。運転手の技術に頼るしかありません。ギアをローに入れて、慎重に前へ進みます。さらに道が狭く、行き違いが難しく大渋滞になるいことも。なるほど、観光バス進入禁止というのが理解できます。


 私たちのトラックは、未知なき道を登っていきます。時々、農民がトラクターにのって荷物を運んでいますが、馬力が足りず、後ろで一生懸命押していました。斜面を這うように、石畳の旧道が残っていて、農民たちは荷物を担いで仕事から帰ってきます。水牛が畑を耕すなど、中国ののどかな農村の風景が広がります。

江嶺の古鎮


 お昼は、江嶺でたまたま入った農家で食事することになりました。この家は、旦那さんが村の中学校の先生。後で調べたら、カメラマンたちご用達の宿で、シーズンになると付近の村も総出で、宿泊に利用されるそうです。特に春の菜の花、秋の紅葉、冬の雪景色と四季の移ろいを写真に収めようとするカメラマンがこの山奥にまでやってきます。


 先生と話をしていると、この中学校の生徒数は1000人を超えるらしく、あまりもの校区が広いためにほぼ100%寄宿舎生活。遠い生徒は学校から25キロも離れていて、週末になったら荷物を担いで歩いて帰るそうです。この付近にはまだまだ車も入れないような村がたくさん散在しています。街に通じるバスも1日数本。


 この時期収穫される大根・サツマイモ・ニンジン・そして畑いっぱいに広がる無農薬の青梗菜をつかって料理を作ってくださいました。酒かすにつけた魚はこの地区の特産物。自家製のお茶には甘みと苦味が共存し、中国茶本来の味を楽しめます。もちろん、無農薬。今年は大根が収穫しすぎて、豚のえさになっているとか。油も自家製菜種油。


 でも、こんな山奥にも見事な木造建築が残っていて、思わずため息が出てしまいます。各村々にはその昔、非常に文化的レベルの高い人たちが住んでいたことを裏付けます。しかしどこも保存がいまひとつで、このままでは一部は倒壊するのも時間の問題かと思います。私は今回の旅行でしっかりとカメラに収めておきました。

農家でご馳走になったお昼 野菜・魚すべて自家製


  今回、江西省の村々を回って感じたのは、中国の身近な文化財がいま非常に大きな危機に瀕しているという点です。


 そして改めて、あの60年代から70年代の10年間が中国の庶民に与えた影響の大きさを痛感しました。この10年間に失われたものは徹底的に破壊された歴史的文物だけでなく、人の価値観までもが大きく変化してしまいました。そのことを悔やむ一部の農民たちの声もしっかりと聞きました。


 そして、「解放」という意味についても、再考させられます。本来は守るべき村の「おきて」や「しきたり」も封建思想とされ、それらを否定し、徹底的に消してしまいました。その結果、古代人たちが大切に守り続けてきたものも否定され、残ったのは荒れ果てた遺産だけというケースがたくさん見受けられます。江西省だけでなく中国全体で丸はげの山が多いのも、その10年間の名残です。ただ、大切に残されていた木々の多くはまだ現存しているので救いですが。


 使命をすでに果たしたといえばそれまでですが、観光開発はしっかりするのに建築物の補修はほとんどしないという、その根本的な矛盾が顕著になってきたように見えます。


 さらに、悲しいことに今回あった一部の農民はこれら建築物を修復することよりも、むしろ崩壊してしまうことを願っているという現実。すなわち、崩壊すれば、新しい建築物が建てられるからだそうです。


 確かに、観光客からはたくさんのチケット収入があります。しかしそのほとんどは家の持ち主に回ってこず、一体だれがこのお金を使っているのかは、ほとんど明らかにされていないのが現状だそうです。

婺源から江湾へ抜ける道からの風景、春になると一面の菜の花畑
posted by 藤田 康介 at 00:00| 未分類

2005年11月11日

江西省古鎮めぐり (3)

昨晩は非常によく眠れました。とにかく聞こえてくるのは川のせせらぎだけ。以前、日本の上高地にいったときにも感じた森の香りと、新鮮な空気を思いっきり吸い込み、私の肺に溜め込んでいる上海の汚染された空気を思いっきり出す心境です。ただ、シャワーがないので、足しか洗えなかったのが残念ですが、これだけは仕方がありません。肥溜めにトイレをしなくて済んだだけでもよしとしましょう。


 なぜこんな山奥に立派な建築物が残っているのか?実は、このエリアは四方が山に囲まれている盆地で、風水が極めてよいという信仰上の理由があり、さらに勤勉な村人たちが、科挙に及第して故郷に錦を飾るというケースが多かったのです。詳しいことはまたサイトのfeatureに掲載しますので、お楽しみに。

古坦古鎮で出会った子供たち 写真送るね

 これら村には皆樹齢1000年から800年の木が必ず植えられていて、一種のシンボルとなっています。これは、木が育たないところは風水がよくないという理由もありますが、風の通り道をさまたげるという物理的な重要性も持っています。しかし、文化大革命のときにその多くの遺産が破壊され、山も丸裸になってしまいました。そのことを残念がる村人たちは少なくありません。
posted by 藤田 康介 at 17:25| Comment(0) | 中国旅行記

山之内 淳の江西省古鎮めぐり (3)

 昨晩は非常によく眠れました。とにかく聞こえてくるのは川のせせらぎだけ。以前、日本の上高地にいったときにも感じた森の香りと、新鮮な空気を思いっきり吸い込み、私の肺に溜め込んでいる上海の汚染された空気を思いっきり出す心境です。ただ、シャワーがないので、足しか洗えなかったのが残念ですが、これだけは仕方がありません。肥溜めにトイレをしなくて済んだだけでもよしとしましょう。


 農家のご家族にお礼をいって、心なしかの宿泊料を払い、ついでに早朝の理杭をじっくりと案内していただきました。


  天気はあいにくでしたが、それが逆に古鎮にガスを発生させ、独特の「古めかしさ」を感じさせます。丘に登ると、各家庭から上がる朝食の煙を目にし、井戸端では女性たちが洗濯にいそしみます。井戸端会議とは、こういうのを言うのだと実感。


 なぜこんな山奥に立派な建築物が残っているのか?実は、このエリアは四方が山に囲まれている盆地で、風水が極めてよいという信仰上の理由があり、さらに勤勉な村人たちが、科挙に及第して故郷に錦を飾るというケースが多かったのです。詳しいことはまたサイトのfeatureに掲載しますので、お楽しみに。

 

理杭古鎮の全景


 この日は、昨日のトラックを1日貸しきりました。やはりトラックぐらいの車高がないと、この凸凹道は大変です。上海ナンバーの車をたまに見かけますが、みんなRVのごついくるまでした。悪路を走るのにはもってこいでしょう。貸切といっても、多くの農民は交通が不便で足がなく、途中お年寄りや子供をふもとまで乗せてあげました。ここでは、ヒッチハイクは当たり前です。


 田舎といっても、中国の中ではまだ恵まれているほうで、たとえば上海の虹橋空港が99万元を寄付して「希望小学校」という4階建ての立派な学校を作ってあげたり、そういう地道な援助があちこちで見られました。古坦古鎮でであった小学生たちのくったくない無邪気な笑顔が印象的です。デジカメに写った写真を見せてあげると、はしゃいでいました。小学校の住所を聞いたので、帰ったら写真を送ってあげようと思っています。


 これら村には皆樹齢1000年から800年の木が必ず植えられていて、一種のシンボルとなっています。これは、木が育たないところは風水がよくないという理由もありますが、風の通り道をさまたげるという物理的な重要性も持っています。しかし、文化大革命のときにその多くの遺産が破壊され、山も丸裸になってしまいました。そのことを残念がる村人たちは少なくありません。

古坦古鎮で出会った子供たち 写真送るね


 お昼はもちろん付近にレストランがないので、農民の家にお邪魔して、採りたての野菜や魚を料理してもらいました。サツマイモがおいしい!蒸し芋にしてもらいましたが、非常に甘いです。また同じ淡水魚でも上海のもとのは比較にならないほど泥臭くなく、また感動。





 写真の皇村古鎮は、この婺源エリアの村々発祥の地でもあります。この村の入り口にも紅葉した楓の巨木が植えられていて、この村の歴史を感じさせます。人が住む前にまずこの楓の木を植え、そして3年後無事に成長したら、人々が移り住んできたといわれています。またこの村では、中医学で実が生薬にも使われる紅豆杉という珍しい杉も大事に村で保存されていて、今日も立派に葡萄のような実をつけていました。

  

皇村古鎮(皇は正しくは竹かんむりに皇)


 もちろん、この彩虹橋のように開発の手が入って、観光地として復元されたところもあります。でもこの橋は、残念ながらすでに橋としても指名を終えてしまったといえるでしょう。これは寂しい。この橋をわたる村人は今はおらず、ほとんどが観光客です。


 だけど、婺源にはまだまだ現役で村としての機能をそのまま果たしているところがたくさん残っており、江南地方の水郷のように極度に観光地化されていないところに強い魅力を感じました。目的地に着くまでに荒地を走り続けないといけないという交通の不便さがこの秘境を守っているのでしょう。


 しかし、残念なことも。これらすばらしい文化遺産も、管理の手が行き届かないので、崩壊する危険にさらされています。私が今回観光しているところは、日本で言えば白川郷のようなところで、農民たちが当時の建築物を守りながら住み続けているのです。でも、農民たちだけでは限界もあります。貴重な文化遺産がありながらも、彼らにとってはあまりにも日常過ぎて、それが貴重であるということがなかなか気がつかないし、気がついても資金面などから何もできない。そこで、すでに倒壊してしまった家屋も数多く、また上海の虹橋にある貴州レストランのように、売られてしまい移築されるという運命をたどることもあります。もうあと10年もしたら、もっと減るんではないかと心配になりました。





 今日は天気は雨がふったりやんだりしていましたが、大雨には遭わず、見たかった古鎮4箇所はほぼまわれました。明日から今回の旅行も終盤を迎えますが、まだ数箇所回る予定です。トラックの運転手さんありがとう。明日もよろしくお願いしますね。


 今まで婺源であった人たちは非常に人情味があり、素朴で、いろいろ世話になりました。安徽省の田舎では、さんざん騙されて、喧嘩に明け暮れたのと比較するといままでは非常に順調です。

清華古鎮の彩虹橋
posted by 藤田 康介 at 00:00| 未分類