このあたりの村には、村の公共財産ともいえる祠、すなわち祠堂が大切に残されていて、いまでもそのすばらしい彫刻を、オリジナルの姿で見ることがきます。
ただ、この祠堂も文革などの動乱期を経て、破壊されてしまったところも少なくないのですが、そのあるふと立ち寄った村では、大工が祠の中で立派な棺おけを作っていました。
その棺おけについてふと思ったこと。
実は、最近みたDVDで井筒和幸監督の「パッチギ!」があったのですが、その中のシーンで、棺おけが家の中に入らず、入り口を壊して無理やり入れ込む場面がありました。そのシーンをみてふと思い出したのが、養老孟司先生が「死の壁」ど書かれた一節。
「・・いざ棺をエレベーターに載せようとしたら、横にしたままでは入りきらない。もっと低層の建物なら棺を持って階段で降りることもできるでしょうが、十二階となると大変です。仕方が無いから、生きているとき同様に、立ってエレベーターに乗っていただくことにしました。」
考えてみれば、私も上海の高層マンションに住んでいます。私のマンションのエレベーターには棺おけが入らない。絶対に無理です。
階段で運ぶことも不可能でしょう。
うちの病院のエレベーター、確かに寝たまま患者さんを載せることができます。そうか、ここで改めて、我々は病院で「強制的」に死ぬ運命にあるのか。。。と実感しました。
蜂の巣のように高層マンションが建ち並んでいる上海、上海人の多くは死を病院で迎えることになるのです。
でも、私はできることなら病院で死にたくない。少なくとも最期は自宅で迎えることができたらなと思っています。 改めて、我々の生活と「死」というのがすごくかけ離れたものになっていることを実感しました。
江西省婺原でみたような棺おけで、自宅でお別れができる人は幸せだなと。棺おけすら入らない家に住んでいるというのは、ダメですね。
まるで、自分の最期の後始末すらできない人間のようで。。。。