2008年01月14日

祭壇をみてたまげてしまう。。食への追求

食の国中国。

 大抵の日本人が上海にきても、本場の中華料理を食べてがっかりしてしまうことが多いことは私も認めます。そして、結局は日系のチェーンレストランとかに入ってしまうなんてことはよくある話です。

 だけど、中国人のとって、食がいかに大切なのか、私は今回の葬式に参列して改めて痛感しました。美食というのは、中国人の生活には欠かせず、亡くなってからも非常に大切にするのだということが分かります。

 写真は祭壇の前に並べられた食材の数々です。十二支をテーマに、本当にいろいろな食材が並んでいます。魚介類をみてみても、伊勢エビ、ウナギ、ずっぽん、上海蟹、フナ、コイ、ナマズ・・・肉類も、鶏・ダック・ハト・ガチョウ・・・・それら動物が野菜とともに十二支をモチーフに表現されています。もちろん、豆腐類も。私の大好きな湯葉もありました。

 これら料理は、半分調理されていて、祭壇に規則正しく並んでいます。もちろん、点心類・麺類も。魚や肉類は傷まないように予め火が通してありました。

 すごいのは、村の代々調理師を務めている村人がやってきて、すべて手作りで作っているのです。材料は市場で調達したそうです。

玄関から入って、土間に並べられた料理の数々


担当した調理師は中華料理の家系で4代目。話を聞くと、一昔前は小麦粉などで十二支を造形する技術があったようですが、文化大革命の時期に技術が途絶えてしまい、現在は実際の肉や野菜を使って十二支を表現するようになったようです。

 これは、とくに道教とか仏教とか宗教的なものはないらしく、この村独特のものだそうで、すべて故人に対して供えたものです。そして、お供えが終わったあと、調理師が再び調理して参列者に振る舞われます。

 日本では葬式や法事でもこれほどの食べ物が並ぶことはないでしょう。それも、貴重な肉類ばかりです。故人に対しても、たらふく美味しいものを食べてもらいたい、残された親族一同の願いでもあるのです。

 さらに、感動したのは、親戚や近所の人たちがみんな集って、積極的に協力しているところ。とくにどうするという決まりはないようですが、みんなコツコツと仕事を手伝っていました。これだけの準備をするのは並大抵のことではありません。

 この祭壇の前で、この夜はまず仏教による儀式が行われました。「九華山」の掛け軸がかけられ、読経が行われます。

 ここでは、仏教と道教が同時に存在してもいいようです。

中国人の、食に対するたゆまない追求と美食に対するあこがれ。

 儀式からもその本性をうかがい知ることができます。逆に、中国を支配する人たちは、庶民の食の問題を解決できなければ統治し続けることが難しい、まさにその通りだと思います。

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 無錫から上海へ戻る新幹線で、吉報が入りました。

 妻の兄一家でついに女の子をが誕生しました。

 義父にとっては初孫。大喜びの様子です。

 去る人がいる中、また新しい生命が誕生しました。生命の巡り合わせに、私も感動しました。
posted by 藤田 康介 at 00:00| 未分類

無錫駅に到着、これから上海へ

無錫での長い一日が終わりました。

今日の上海奈良県人会総会への参加は絶望的ですが、今までにない体験をさせていただきました。

中国人の生命観、道教のすさましい儀式、そして故人を偲ぶ人々の情熱、人情。。。

書きたいことがいっぱいありますが、今バッテリーが足りないので、家に戻ってから書きます。

中国人の新しい一面を知ることができました。

しかし、寒い!

無錫駅前は今雪が降っています。
posted by 藤田 康介 at 00:00| 未分類

仏教といっても和尚さんはなし

 「九華山」の絵が掲げられ、てっきり袈裟をきた和尚さんでもやってくるのかと思いきや、来た人はおばさん。(失礼)「九華山」の絵には、地蔵菩薩が描かれています。

 この女性には、4〜5人のお付きの人がいて、なにやら紙で作っています。銀紙や金紙を折っているので、おそらく黄金とか銀などをイメージしているのかと思いますが、ちょっと威厳のありそうな人だったので、聞く勇気が出せませんでした。

 そうするうちに、読経らしき行為が始まりますが、南無阿弥陀仏のようなお馴染みの台詞はなく、無錫エリアの方言でなにやら読み出します。

 無錫で生活したことのある妻は、ここの方言がわかるのですが、私はさっぱりわかりません。上海語と似ているようで似ておらず、呉系の言葉であることしか分かりません。

 クライマックスが何回かあり、参列していた白い服をきた親族たちが、時折号泣します。

 どうやら、完全なお経というわけではなく、人生についてその生き方や摂理、人のあるべき姿や、故人を偲ぶような話が盛り込まれていて、それを聞いて参列者が号泣しているようです。こうしたありがたい話の内容が分かるというのはいいですよね。

 中国の人の号泣は、感情をストレートに表わしたもので、もう雄叫びのように部屋に響きます。よくテレビのニュースなどでみるシーンそのもです。

 しかし、次の瞬間にはけろっとして、ニコニコと冗談を話していたりして、その側にいる私はどう対応したらいいのか困りました。

 おそらく読経というより、講話のほうが近いような気がしますが、一番威厳のある女性は、テーブルの端に坐り、その両隣でもくもくと紙が折られています。そうしたお祈りが延々と数時間続きます。

 さすがの私も眠気に襲われて、一足先に寝ましたが、なんとこのお祈りが徹夜で続けられたそうです。

 しかし、この読経をしていた女性の声はよかった。袈裟をきた和尚さんではなく、女性の登場に、異文化を感じました。これもこのエリアの特徴だそうです。

 今回は仏教がさきに始まりましたが、人の死の時に使われるのは、やはり道教がメインだそうです。
posted by 藤田 康介 at 00:00| 未分類