2009年01月16日

ある精神科医の先生からのメール

 このブログは、本当にいろいろなところで読まれております。そして、様々な読者から、本当に為になるメールをいただき、私の感謝感激しております。

 昨日は、日本の精神科の先生からメールをいただきました。その中で、精神科で使われる抗精神薬も、まさに中医学の生薬処方と同じように、それぞれのお薬の良いところを発揮させ、副作用をできるだけ少なくするように組み合わせるとおっしゃっていました。いや、薬の使い方とは本来そうあるべきなのでしょう。

 実は、患者とのコミュニュケーションを非常に大切にする中医学では、検査結果も含めたすべての症状が大切であり、できる限り細かく診療できないと、処方が組み立てられません。ここには西洋医学で言うような統計学的数値だけでは解決できない、つまり機械的処理できない、何かがあると思うのです。それが、じつは精神科の分野でもそういった状況があるようで、私も「なるほど!」と思いました。

 中医学の医師といえば、昔の中国の医学書をみるとまさに「よろず相談医師」のような、庶民にとってはなくてはならない存在でした。もちろん、西洋医学が未発達だったので、それで十分だとはいいませんが、でも一家全員で診察を受けるなど、すごく人間くさいものなのです。ホームドクターの原点かもしれません。

 それはさておき、生薬の効能についてすこし説明すると、これは先人たちが何百年と使ってきているわけで、文字に表現される以外にも、一種の感覚的な要素も大いに含まれています。

 たとえば、ぼったりとした舌の患者をみたら、茯苓という生薬を使いたいとひらめいたり、体がぽっちゃりした患者さんをみたら、葛根なんかを使ってみたくなる。もちろん、それだけの理由ではないのですが、患者さんを見ていて、ああ、こういう処方のイメージなんだなと思うことが時々あるのです。

 これは、血糖値が高いからインシュリンを使う、という薬の使い方とはまた別の次元の問題かもしれません。それは、患者とのコミュニケーションで初めて生まれてくる中医学の処方の特徴だと思います。医師の観察力と思考でいくらでもいい処方が生まれてくるようになるのです。だから、中医学が難病や奇病によく使われるのです。

 これは、EBM(Evidence based medicine)とはまた違う角度で討論されるべき問題だと思いますが、残念ながら、最近の中国の現代中医学の世界では、EBMを絶対的に崇拝する動きもあり、私は実際にはそう単純ではないと声を大にして言いたいです。

 実は、1つの生薬には、様々な効能があります。「これだからこれに効く」という単純なものではありません。例えば、中医学でいう、血を補う「補血」の生薬には、当帰・熟地・阿膠などが有名です。でも、血を補うために、この3つどれを使ってもいいといったら、決してそうではないのです。

 当帰だったら、さらに止痛作用があったり、便通をよくする作用もあります。熟地だったら、こんどは腎の陰を補う作用もあります。阿膠だったら、今度は肺を潤したり、時には止血作用もあります。

 だから、同じ補血作用の生薬であっても、その使い方はまったく違うわけです。古人たちの経験が、こうしたすばらしい臨床効果を我々に伝えてくれているのです。

 中医学がここまで存続できたのも、そうした臨機応変さと自由度と関係があると思います。
 限られた情報を何処まで収集して中医学的に帰納できるか。科学が発展した現在、検査データなど患者に対する情報があふれており、新しい時代の中医師たちが試行錯誤しなければならない問題なのかもしれません。
posted by 藤田 康介 at 00:00| 未分類